古典芸能の楽しみ方

「難しい」「敷居が高い」と言われる古典芸能も鑑賞するポイントが分かれば面白みも出てきます。そんな見どころなどをご紹介します。

3年ぶりの京都薪能

来月、6月1日(水)・2日(木)の2日間、平安神宮で「第71回 京都薪能」が開催されます。

rohmtheatrekyoto.jp

1950年(昭和25年)に始まって以来、毎年この時期に開催されていた「京都薪能」。

このコロナ禍の影響で2年連続中止となっていましたが、今年は京都能楽協会の設立80年という節目の年でもあり、こうして再開できる運びとなったのは、なんとも喜ばしいことです。

参加するのは、京都を拠点とする観世・金剛と狂言の大蔵の各流派で、京都の初夏の風物詩として、ニュースなどで取り上げられることも多い公演です。

 

薪能の起源は、奈良の興福寺西金堂で催される修二会の行事として始められた「薪猿楽」だと言われています。

それが観阿弥世阿弥による能の完成の後、能の上演形式の一つとして定着したものとされています。

夕闇迫る頃に会場に設けられた篝火に火が灯され、その炎の輝きの中で能が演じられる様は、なるほど「幽玄」という言葉がしっくりくる一種独特の空間を生み出します。

わたしも初めて薪能を見た時は、能楽堂などの快適な環境で行われる屋内上演と比べて、面をかぶって演じている役者が、まるで本当に鬼や幽霊のように感じられて、ある意味、薪能が私の能に対する関心を高めてくれたと言えるかもしれません。

 

この時期は、他の地域でも薪能が催されることが多いので、機会があれば一度ご覧になることをお薦めします。

 

「六月大歌舞伎」の演目変更に思うこと

片岡仁左衛門丈の休演が発表された歌舞伎座の「六月大歌舞伎」ですが、代わりに玉三郎丈主演の「ふるあめりかに袖は濡らさじ」の上演が決まったそうです。

 

元々、劇団新派で演じてこられたお芝居ですが、玉三郎丈もこの作品を気に入っているらしく、自ら新派公演に参加する形で、これまで何度となく上演してきました。

それが今回、歌舞伎公演として演じられることになったのですが、ここで歌舞伎ファンにとっては懐かしい二人の出演も発表されました。

www.nikkansports.com

かつて「市川月乃介」「市川春猿」の名で歌舞伎の世界で活躍されてきた喜多村緑郎丈と河合雪之丞丈が、久々に歌舞伎座の舞台に立つことになったそうです。

ともに「澤瀉屋」の役者として先代と当代の猿之助丈の歌舞伎を支えてきた二人ですが、2017年(平成29年)に後継者問題に悩んでいる劇団新派に移籍しました。

元々、玉三郎丈と同じく歌舞伎役者の頃から新派の公演に出演することも多かった二人なので、新派への移籍は特に大きな混乱もなく進んだようです。

とは言え、この時期の澤瀉屋は、長らく猿之助一門を支えてきた市川右近丈が「市川右團治」を襲名して「高嶋屋」に屋号が変わるなど、大きな動きが続きました。

決して表面には出ませんが、やはり四代目 猿之助の誕生以降、三代目時代をけん引してきた世代との間に、方向性の違いなどがあったのかもしれません。

(実際、右團治丈はこれ以降、猿之助丈との共演より、「高嶋屋」と関係の強い「成田屋」の海老蔵丈との共演の機会が増えています)

 

今回の新派俳優二人の出演は、もちろん玉三郎丈の強い引きがあったからでしょうが、歌舞伎役者としても十分に実力があった二人だけに、これっきりにならず、また機会があれば出演してほしいものです。

やっぱり成田屋!

昨日、東京スカイツリーの開業10周年を記念して、市川海老蔵丈がスカイツリーの頂上で、市川宗家お家芸「にらみ」を披露したそうです。

www3.nhk.or.jp



「にらみ」とは左右の眼球を全く違う方向に向けて客席を見渡す仕草で、市川宗家こと「成田屋」だけが披露出来る芸とされています。
江戸時代には「にらみを見たら一年風邪を引かない」などと言われていたそうです。

昨今、歌舞伎以外のことで話題になりがちな海老蔵丈ですが、思えば彼の舞台を生で初めて観たのは、大阪松竹座で團菊祭が開催された時の「勧進帳」。
演じるのは当然ながら武蔵坊弁慶ですが、花道に登場した瞬間から圧倒的なオーラを放っていたのを、今でも鮮明に覚えています。

よく海老蔵丈の舞台を見て「大根だ」という人もいますが、それを言ったらお父様の十二代目 團十郎丈も人情物の芝居はそんなに得意とは言えませんでした。

そもそも「成田屋」の芸は、弁慶や「暫」の鎌倉権五郎など、わざとらしいくらいの存在感をアピールするヒーローを演じるのが本領。
ある意味、リアリティー溢れる演技は必ずしも要求されていないのです。

その辺りの歴史的な経緯を無視して、一概に批評するのは、私に言わせれば「野暮」というものです。

成田屋」に必要なもの、それは心の機微まで演じきる巧みな演技力ではなく、舞台を圧倒するオーラなのだと私は考えています。

役者と老いについて考える

先日、片岡仁左衛門丈が休演のニュースを紹介しましたが、ここであらためて考えさせられたのが、役者と老いの問題です。

 

舞台に立つと颯爽と見える仁左衛門丈も78歳。そして若い頃に「孝玉コンビ」で鳴らした坂東玉三郎丈も72歳。

いかな名優といえど、やはり寄る年波には勝てないのは非常な現実で、特に動きの激しい演目では、大幅な「手抜き」が行われることもあります。

 

例えば、2018年(平成30年)5月に歌舞伎座「團菊祭五月大歌舞伎」で上演された「弁天娘女男白浪」(通し狂言になっているので本来なら「青砥稿花紅彩画」なのですが、観客が分かりやすいようこの外題にしたようです)では、「極楽寺屋根立腹の場」で弁天小僧菊之助の大立ち回りが見せ場なのですが、これが若いころと比べると立ち回りの分量も時間も明らかに短くなっていました。

この年、菊五郎丈は76歳なので、さすがに若い頃と同じだけ舞台狭しと暴れまわるのは難しかったのでしょうが、「いい時」を見てしまうと、どうしても物足りなさを感じてしまうものです。

 

他にも、2015年(平成27年)1月の大阪松竹座で賑々しく開演した「寿初春大歌舞伎」では、四代目を襲名した中村鴈治郎丈のための「廓文章 吉田屋」で、なんと夕霧を務めた父親の坂田藤十郎丈が、序盤のセリフをまるまる忘れてしまうという大失態を演じています。

この現場は、私も直接観劇していて、当日のNHKの新春特番がどうなるのやらと心配でしたが、この場面を大幅カットでなんとか乗り切っていたのを今でも記憶しています。

藤十郎丈は、この時83歳。確かにけっこうな高齢でしたが、夕霧役は美しい所作が見せ場ですし、なによりも若かりし扇雀時代から、藤屋伊左衛門役ともども、いやというほど演じてきた役で、よもやセリフが飛ぶとは思いもしなかっただけに、驚きもさることながら寂しさを感じたものです。

 

そして、この正月、もっとも衝撃を受けたのが大阪松竹座の「坂東玉三郎 初春特別舞踊公演」です。

先に書いた通り、御年72歳の玉三郎丈ですが、「藤娘」で依然としてその美しさは変わらないなあと感心して観ていたところ、衣装替えで舞台袖にはける瞬間、着物の裾を踏んだのか、雷が落ちたような大音響とともに舞台袖に倒れ込んでしまったのです。

倒れ込みながら舞台袖に隠れたので、倒れた瞬間を観客に見せなかったのはさすがと思いましたが、それでも伴奏の長唄が一瞬聞こえなくなるほどの音を立てたのですから、何が起こったのか観客もすぐに気づきました。

客席後方で観劇していたらしい劇場関係者が慌ただしく客席を飛び出していったので、一時はどうなるかと思われましたが、さすが玉三郎丈というべきか、すこし時間がかかったものの次の衣装に着替えると何事もなかったように再び舞台上に姿を現して舞を続けたのでした。

それにしても、若かりし頃より「天才女形」の名を欲しいままにしてきた玉三郎丈のよもやの転倒は、やはりひと昔前ではあり得ないことだけに、私の中で少なからず衝撃的な出来事でした。

 

とまあ、私が経験してきただけでも、このように様々な形で「老い」がもたらす影響を鑑みると、やはり「役者は一生現役」というのは難しい話で、どこかで引き際を考えることが、当人の名誉を守るためにも必要ではないかと思う次第です。

 

そういえば、鴨川をどり・・・

先日、何気なく通勤の途中で駅の広告ポスターを見ていたら、「鴨川をどり」のポスターを見かけて「ああ、もう始まっていたのか」と今さらながら気づいた次第。

www.kamogawa-odori.com

 

この「鴨川をどり」は、京都五花街の一つ、先斗町の芸舞妓による舞踊公演で、日頃の稽古の成果を披露する年に一度の晴れ舞台です。

 

始まったのは明治5年(1872年)で、当時京都で開催された「第1回 京都博覧会」の目玉の一つとして上演されたのが最初だそうです。

その後は、戦争などによる休演を挟みつつも、現在の京都五花街が上演する舞踊公演の中で、最も歴史ある公演として知られています。

 

ところで、開催場所となる先斗町歌舞練場ですが、鴨川沿いに北に向かって進むと、三条大橋を渡ってすぐの場所に、古風な煉瓦壁の建物と「先斗町歌舞練場」の看板がかかっているので、すぐに分かるのですが、問題は入口。

三条通から細い路地を一本入った奥まった所に正面入り口があるので、これがなかなか初めての人は分かりにくい。

https://www.kamogawa-odori.com/wp-content/themes/wodori/library/images/pic_kabu01_cap.jpg

(写真:先斗町歌舞練場ホームページより)

なんでこんな分かりにくい場所に、とも思いますが、よくよく考えてみれば歌舞練場の正面入り口があるのは、車も通れぬ細さとは言え、まさに先斗町のメインストリート。

まあ、当然と言えば、当然の場所というわけなんですね。

 

とは言え、宮川町の歌舞練場などは八坂通り沿い、しかも建仁寺の真向かいということで、結構立派な門構えなだけに、「もうちょっと何とかならんのかいな」とも思いますが、100年近い伝統の前には「余計なお世話」というものかもしれません。

役者と俳句

本日5月16日は、かの「俳聖」松尾芭蕉が「奥の細道」の舞台となった東北・北陸への旅に出発した日だそうです。

 

近頃は「プレバト」などの番組の影響もあって、俳句人気がまた盛り上がってきていますが、その昔、歌舞伎界でも俳句は役者の嗜みの一つだったそうです。

その証が今日に伝わっている役者の名跡のいくつかが、実は歌舞伎役者の俳名から来ているという事実です。

 

例えば、当代の尾上菊五郎丈の父君が名乗られた「尾上梅幸」の名跡ですが、これは初代の菊五郎丈の俳名から来ています。

もっとも役者の名跡として実際に「梅幸」の名前を襲名したのは、三代目の菊五郎丈からだそうです。

また当代で四代目となる「尾上松緑」の名跡も、元は初代が使っていた俳名をそのまま名跡にしたのが始まりです。

 

他にも、現在で八代目となる「中村芝翫」と四代目を数える「梅玉」も、三代目の中村歌右衛門丈がある時から自身の俳名を芸名として使い始めたのが始まりとされています。

ちなみに当代の梅玉丈の弟である魁春丈の名跡も、養父である六代目の歌右衛門丈の俳名を頂いたものです。

 

新しいところでは「市川猿翁」の名跡が、元々は二代目の市川猿之助丈が自身の俳名を隠居名として使ったのが始まりだったり、「松本白鸚」が八代目 松本幸四郎の俳名に由来したりと、歌舞伎役者と俳句は結構切っても切れない関係だったりするのです。

 

とはいえ、最近は俳句を嗜む役者さんもあまりいなくなったようで、当代の松本白鸚丈が「錦升」という俳名で創作活動をしている他は、片岡我當丈の「壽蘭」があるくらいです。

(ちなみに「我當」という名跡自体が俳名由来とも言われていますが、初代以前の関係者で「我當」を俳名とした人物が見当たらないので、真相は不明です)

 

歌舞伎の演目にも俳句と縁のある作品もあることですし、当代の幸四郎丈や菊之助丈、猿之助丈あたりが挑戦してくれると盛り上がるように思うのですが・・・

 

 

またまた片岡仁左衛門丈の休演に思うこと

上方歌舞伎の重鎮である十五代目 片岡仁左衛門丈が、この「六月大歌舞伎」を休演することになりましたが、先日、息子の片岡孝太郎丈が「帯状疱疹のため」と発表しました。

www.nikkansports.com


頭に帯状疱疹では、確かに鬘が付けられないので致し方ないですが、ここ最近、松竹は仁左衛門丈と玉三郎丈の伝説の「孝玉コンビ」に、コロナ禍後の歌舞伎公演の巻き返しを期待していただけに、興業面では手痛い打撃と考えていることでしょう。

とは言え、仁左衛門丈も今年で78歳。
よく古典芸能の世界では、かの渋沢栄一翁の名言
「四十、五十は洟垂れ小僧 六十、七十は働き盛り 九十になって迎えが来たら 百まで待てと追い返せ」
が使われますが、やはり年齢とともに衰えは隠せなくなります。

それに仁左衛門丈は、まだ「片岡孝夫」という本名で舞台に立っていた50歳前に、肺と食道の大病を患って、一年も休業を余儀なくされています。
この時のことは、後に本人もインタビューなどで「さすがに、これで人生終わりかと思った」と言うほどの症状だったそうです。

元々、体格もそんなにガタイのいい方ではなく、同年代で昨年亡くなられた中村吉右衛門丈と比べても、背の高さは同じくらいですが、肉付きは吉右衛門丈の方が遥かに貫禄があります。

昨年には兄の秀太郎丈が亡くなり、仁左衛門丈の重責がますます増してきた昨今、体調には十分に気を付けて頂かないといけませんし、何より後進となる孝太郎丈や愛之助丈にもさらに活躍してもらわなければなりません。