古典芸能が普及しない理由
「古典芸能」と聞いて、ほとんどの人が抱くイメージは、
「難しい」「敷居が高い」
というものでしょう。
好きな人は「そんなことはないよ」というでしょうが、客観的に見ればやはり敷居が高いのは事実だと思います。
その理由は色々ありますが、私は古典芸能の側にも大きな原因があると考えています。
それは古典芸能というものが、「歴史と伝統」という付加価値に甘えているからだということです。
能にしろ、歌舞伎にしろ、文楽にしろ、メジャーな古典芸能は、国から何らかの補助を受けて継続しています。
それは「日本の伝統文化を絶やさない」という観点から行われているのです。
確かにそれは間違いではありませんが、一方で「なぜ、保護を受けないと存続出来ないことになったのか」への古典芸能からのアプローチがしっかり出来ているのかというと、首をかしげざるを得ないと思います。
「先人たちが造り上げたものを、しっかりと継承する」
それは確かに大事なことですが、そこで止まってしまうと、それ以上の発展は望めないでしょう。
そもそも、能や歌舞伎、文楽なども、誕生した時は斬新きわまりない芸能だったはずです。
電気も大型機械もCGも無い時代に、奇想天外な舞台演出を生み出すために、先人たちは知恵の限りを絞ったはずです。
当然、今の技術を取り入れて、新しい舞台を生み出すことも可能なはずですが、現代の演者たちは先人たちの敷いたレールを外れて走ることは良くないように考えているのではないでしょうか?
もちろん、基本も出来ていないのに奇をてらってみても、一時の目新しさはあっても長続きはしないでしょう。
その昔、斬新な演出で人気を博した歌舞伎の十八代目 中村勘三郎丈は
「『型』というものがしっかり出来た上で、敢えて外してみるのが『型破り』、『型』が出来ていないのに奇をてらうのは『形無し』」
という名言を残しました。
その言葉通り、見事な「型破り」の舞台を次から次へと生み出した勘三郎丈の公演は、常に大入り満員でした。
先人たちの生み出したものをしっかり継承し、かつその時代に認められる舞台を生み出す。
この両方をバランスよくやり遂げることで、初めて古典芸能は未来に向けて存続出来る。
私はそのように考えます。