三遊亭圓楽さんの訃報に思う
三遊亭圓楽さんが、長い闘病の末にお亡くなりになりました。
その業績について今さら私ごときが語ることでもありませんが、一つ気になったのが圓楽さんも気にされていたという「落語協会の統一」という問題です。
落語家は「個人事業主」ですから本来は一匹狼のような商売です。
繋がりがあっても、せいぜい師匠と弟子くらいのものです。
そんな不安定な落語家の世界に、ある程度まとまりを持たせようとしたのが「落語協会」の設立です。
とは言え、3人集まれば派閥が出来ると申します通り、結成して数年後には早くも分裂騒ぎが起きます。
当時人気だった柳家金語楼が、禁じられていたラジオ出演を果たしたことで活動の場を失ったことから、東京進出を目論んでいた吉本興業が、金語楼のために「日本芸術協会」(後の落語芸術協会)を作ったのです。
こうして落語の団体は二つになりましたが、双方の話し合いによってその後は大きく揉めることもなく、互いに切磋琢磨する関係となります。
その後は大きなトラブルもなく順調に推移しましたが、1978年に真打ちの大量昇進を巡る当代会長の柳家小さん師匠と先代会長で大名跡 三遊亭圓生師匠との対立がきっかけで、落語協会は分裂してしまいます。
まず圓生一門が離脱して「落語三遊協会」(現在の五代目圓楽一門会)を結成。
さらに圓生一門と行動を共にすると思われた立川談志師匠が、独自の行動を取って「落語立川流」を起こします。
こうして江戸落語は、大小あわせて4団体が乱立する状況となりました。
やがて時とともに分裂騒動の当事者たちが次々と他界していくと、しがらみの無くなった次世代が、再び一つにまとまることを考えるようになります。
亡くなった圓楽さんもその一人で、予てから落語協会への一門全体の復帰を考えていたようです。
というのも、分裂騒動のせいで圓生一門は東京の主な高座に出られないという状況が長く続いて、一門の落語家たちが苦労する羽目になったからです。
(余談ですが、この時に助け船を出してくれたのが、落語芸術協会に籍を置いていた桂歌麿さんでした)
圓楽さんが存命であれば、圓楽一門会の復帰も早々にあり得たかもしれませんが、それだけの発言力のある人がいなくなったことで、当分江戸落語の現状は変わることはないでしょう。